しまさんのアタマの中

ワタクシしまさんのアタマの中。公益性ってなんぞ?「にんげんの森」。宗教のこれからを考える「宗教といつか」。そのほか普段思ったこと、知れば少し幸せになれるかもな考え方を書いてみてます。

「にんげんの森」③ 公益性の3要素 「公共」

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「公共」の要素

 「公共」の要素は、「色んな人が触れることができる。色んな人が価値あること、良いことと感じること。」と定義します。

 公共のもの、公共のことを想像すれば、この意味は非常に分かりやすいかと思います。例えば、「水資源は公共のものである」という仮説を検証してみましょう。人間の体の7割は水分でできているそうです。つまり、人間の生存に不可欠なものなのです。ではなぜ「公共のもの」といえるのでしょうか?

 それは、自然に存在し、どの人間も生き物も等しく水を必要としているからです。そのためにも、政府や自治体などの公共団体は水道を整備することを税金でまかなって、事業者や住民に水を提供します。一方で、使った水を適切に自然に返すために事業者や住民は適切に捨てるべきであると啓発したり、自主的に水資源の保護活動をしたりするわけです。それは、水が「価値あるもの」と認めているから活動が発生するわけです。

 以上の点から、水資源は公共のものであり、公共の要素に密接に関わりがあります。そのため、企業のCSR(社会的責任)活動((この例として、サントリーCSR活動があります。

www.suntory.co.jp

でも、水資源を守る活動が、お金をかけてでも良いこととして行われるわけです。企業の資源は有限ですので、無駄と考えることはおそらくしないでしょう。しかし、それはすぐには価値にならなくても、事業を続けたり、地域住民に水資源を使うことを認めてもらったりと継続的な価値となりえるわけです。

 このように、水資源は公共のものとして考えられるのです。では、「公共」の要素を一般のにんげんが考えるにはどういうことから考え始めればいいでしょうか?

 社会への視点

 「公共」の視点をもつには、「広い視点」それも「社会へ向けた、マクロの視点」が必要です。

 以下の図では、「大学にはどのような公共の要素があるか」を考えるために、言い換えれば大学には「どんな社会への視点が存在するか」を説明しています。

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 大学の存在意義というのは、研究機関、または学生の教育機関です。

 研究機関とは、研究によって、社会において有益なタネを育てたり、今あるものを改善したり、システムを提案したりするという機能です。

 教育機関は教養教育、いわばコンセプショナル・スキルを育む機能を指しています。自分で考え、自分で求めて、自分でチェックし、自分で結論をだす(ここでの自分は1人とは限りません)というのがコンセプショナル・スキルです。いままでの知識や経験を活かし、「課題解決」していく力です。そのため、授業による知識の付与も大きいですが、ゼミナールや参加型授業、課外活動(サークルや部活、バイトやインターンなど)という実践の部分も教育の一環に含まれていきます。

 学生や教授(研究者)の活動によって、大学の研究がより深耕されたり、学生の課題解決能力の向上を通じて、卒業生の活躍があったりするわけです。研究がより社会改善したり、価値創造する人間が生まれていくことによって、社会が良くなっていくことにつながっていきます。

 これらの機能を多くの人が享受することで、より社会を良くしていく人間を増やしていける、研究などで多くの人が触れる機会がある、という点で大学の公益性、「公共」の要素の存在があるわけです。

 むずかしい話になりましたが、つまるところ公益性の「公共」の要素において、その組織や人間は「社会に対して視点をもっているか」が重要になります。

個人はどうすればよい?

 では、個人レベルに落とし込んでみましょう。

 みなさん、「節電」「節水」は何のためにやっていますか?「お金がもったいない」という人もいると思いますが、社会的なムーブメントととしては、「無駄を減らし、環境への負荷を減らしましょう」というものがあったと思います。「地球にやさしく」ですね(という言葉に対抗して、とあるロックバンドが「土星にやさしく」という曲を作ってましたが)。

youtu.be

 この、「環境への負荷を減らしましょう」というのは、自分たちに直接関係ありますか?電気をこまめに消したり、水の蛇口をこまめに締めたりすることが環境を良くしていくと信じてますか?

 私はそこまで信じてませんが、「とりあえずできること」で、ちょっとマシになるというデータも存在しています。

ondankataisaku.env.go.jp

 であれば、皆がやるようになって、(社会に悪影響であろう)地球温暖化が減速するまたは資源の無駄の減少につながるのではないか、ということで政府や企業がキャンペーンしているわけです。どういう点で社会に対して視点があるか、もうわかりますね?

 多少強引ですが、こうなるわけです↓

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 環境が良くなることと社会が良くなることはイコールとは限りませんが、節電によって、人間の生活が将来制限される可能性が減るでしょう。であれば、社会の改善、良くなることにつながると考えていいと思います。

 そうです。人間個人はどのようにしていけばいいかというと、「いますぐにはつながらなくても、なにかこういう目的があって、できることがこれだけあるので、コツコツ続けよう」「コツコツ続け、将来的にはやれることをどんどん増やし、ビジョンの達成を目指そう」というのが適切だと考えています。

まとめ

 ここまで、「公共」の要素について説明してきました。「公共」の要素の定義と、「公共」の要素において重要な考え方である「社会への視点」について、そして個人はどのようにしていくべきかという話でした。

 次は「共生」の要素について考えていきたいと思います。

 

「にんげんの森」② 「公益性」の3要素と社会貢献

 前回は「公益性」について話してきました。定義は「社会にとって良いこと、価値となること」としました。そして、具体的に社会にとって良いこと、価値となることとは何かについて、大学教育を一例にとりあげたり、企業の理念をもとに考えてみたりしました。

 今回は、さらに深堀するために、「公益性の3要素*1を取りあげたいと思います。

公益性の3要素とは?

 「公益性の3要素」とは、「公益性」を要素分解し、活動やその活動主体に必要な要素を提示したものです。具体的には「公共」「共生」「豊かさ」です。

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 これらの要素があれば、「公益性」のある活動または人間・組織である、というものです。絶対的なものではありませんが、非常に親和性の高いものだと思います。

 これら3要素の意味は次回以降で詳しく説明していきますが、今回はこれらの考え方について話していきたいと思います。

社会での「良いこと」はこの3つである程度説明つきます。

 これが基本思想です。ちょっとこれだけだとわかりにくいので、それぞれの定義を書いておきます。

 「公共」とは、「色んな人が触れることができること。色んな人が「良いこと」と感じること。」と定義します。良く言う「公共物」とか「公共性の高い」の「公共」ですね。

 「共生」とは、「にんげん同士、お互いを尊重し共に生きるという考え方」としています。特に、「多様性社会」と「利他主義」という考え方と親和性が高いです。早い話が他人と認め合う、他人を受容するということです。

 「豊かさ」とは、「他者に向けての行動を起こすために必要な自分自身の豊かさです。3つの要素のうち、唯一「自分のこと」が中心であり、自分の能力又は考え方に対する要素です。

 カラフルで目がチカチカする…?たしかに(笑)マイクロソフトパワーポイントの既存設定をそのまま使ったので(笑)

 公益性の高いヒトや組織はこれら3つの要素を兼ね備えています。

 シンプルに具体例をあげると、僕が大学の研究でも参考にさせていただいた「NPO法人 カタリバ

認定NPO法人カタリバ | 子ども・若者の「生き抜く力」を育む教育

」さんを取りあげたいです(お金とかもらってないですよ(笑))。

 NPO法人カタリバさん(以下カタリバ)は、子供の教育格差をなくそう、どんな環境で生まれ育っても未来を創り出せることを信じれる社会を作る、という目的で活動しています。具体的な活動から公益性があるか考えましょう。

公益性の高い組織から公益性を考える

 「公共」の要素はどうでしょうか?対象ははじめ中高生でしたが、より拡大して子供全体、さらには被災地の子供用のプログラム、学習難民の子供用のプログラムなどを拡充しています。多くの人が触れられ、いわゆる社会からこぼれそうになってしまう(差別的表現に聞こえてしまうかもしれませんが)子供たちを救うという目的で活動している点で公共性は高いでしょう。

 では、「共生」の要素はどうでしょう?共生していくために様々な協力者を募っている点は評価できます。また、社会的な共生を目指し、対象者を制限せず(届いていない可能性はいったん排除して)子供すべての包摂を目指している、教育機関として機能している点でこちらも満たしているといえるでしょう。

 最後の「豊かさ」の点ではどうでしょう?これは…組織の沿革を見ていくとヒントがあると思います。参画する人たちのリテラシーの問題になるので判断は難しいですが(笑)はじめは学生団体というベースですが、この時点である程度のリテラシーはあると判断していいと思います。少なくとも地元のヤンキーが暇つぶしにやっているとは到底思えないので。運営自体の適正さも、NPO法人として財務情報や活動情報の開示を行っているので、チェック機能もしっかりしています。この点は豊かさとは関係ないかもしれませんが、そのことをしっかりと行えるスタッフの存在は組織の豊かさの一つといえるでしょう。

 これらの要素をしっかりと兼ね備えた「公益性の高い組織」は、社会にとって良いものと考えられます。むしろ、「認定NPO法人」まで来ているので実際に認められているわけですが。

 そのような組織が実際に活動することをここでは「社会貢献」とします。実際のカタリバ活動など、上記の要素を実現していくことを指します。

まとめ

 本稿では、「公益性の3要素」についてざっとおさらいし、具体例とともに、その3要素がそろうことが「公益性が高い」こととつながることを証明していきました。

 次の記事から、3要素や社会貢献についてより深堀して話していきたいと思います。

*1:あくまでしまさん自身で考えた概念です

宗教といつか① 駆けだし

 自分のブログで、ちゃんとアタマの中を開示しようとするならば、必ず「宗教と現代社会」「宗教の可能性」「宗教が社会に開くには」なんていう話をしたいのです。なぜなら、私自身寺育ちであり、大学で会計学を専攻しながら、卒業研究では「宗教法人の情報開示 ~公益性の視点から~」というテーマで論文を書き上げ、関心や専門性については人より高いと思っているからです。

 この記事はその「駆け出し」として、ワタクシがなぜ宗教の可能性の話をするのかをしっかり書きたいと思います。

そもそも「宗教」とは?

 宗教とは、何なのか…?

 法的な根拠として。宗教法人法第2条では、

宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体

 のことを宗教法人というそうです。つまり、仏教とか神道とかキリスト教とか幸福の科学とかの宗教を広める団体、またはその信者を教育する機関として宗教法人が存在します。法律的には宗教は定義されていません。

 しかし、海外の法律では言及があります。例えば、イギリスでは非営利組織非営利組織はチャリティと呼ばれ、チャリティ委員会がチャリティ法で認可した組織のことを指します。そのチャリティ法の中では、

①至高 の存在への信仰であること

②礼拝を通じての思考の存在への信仰の表現*1

 と定義されています。正直「?????」という感じでしょうか(笑)

 最近は減ってきたのかもしれませんが、受験の合格祈願に神社に言った経験がある方はたくさんいると思います。文字通り、「神にもすがる思い」だったでしょう。この「至高の存在」とは、このように自分の運命を決めている(かもしれない)存在のことを指し、それに対する信仰(信じること)を「宗教」と定義づけていたわけです。おわかりいただけましたか…?

 私自身、寺育ちだったため、「至高の存在」であった仏様や神様がすぐそばにいる生活をしていたわけです。しかし、檀家さんはおじいさんおばあさんばかり、若い人には宗教に関心がないと愚痴る方も多いです(この「最近の若者は…」的言説は今も昔も変わらないそうですよ*2

 それでも、私は宗教の、または宗教的コミュニティに可能性があると思っています。学びたい若者や逃げたい若者には最高の環境だと。

人間らしさ

 私は、宗教という「すがれるもの」の重要性が感じられているから可能性を信じたいと思っています。

 現代において、社会的不安はたくさんあります。それは、日本が憂慮すべき状況にある、という政治の文脈よりも、経済格差が拡大している、という経済の文脈よりも根本的な問題と考えます。それは、「おたがいさま」の消滅、または「消費者体質」*3という人間の社会的な、人間らしさのある生き方の欠如、という人間の文脈です。

消費者体質

 極端な言い方をすれば、「消費者体質」とは「金を払っていれば、その対価に見合うものが手に入る、そうでなければ文句をいくら言ってもいい」というものです。なぜ、そうなるかというと、まわりに頼れる人がいないから、というよりも頼れる人を作る気がないから、お金で信頼やサービスを買うわけです。

 しかし、信頼やサービスの提供者も人間なので、多少のミスや間違いがあるわけです。当たり前の話です。でもお金を払っているからという理由でいくらでも文句を言っていい、なんならお金は返してもらえる前提で話が進む(しかもこれが賢い消費者となってしまうのです)。

 しかし、そう言うミスや間違いは頼んだ側も問題があるかもしれないわけですし、頼んだ側もたぶん同様のミスをかもしれません。そういうときこそ「おい、金払ってんだよこっちは!」というよりも「お互いさま」という気持ちで、「大丈夫ですよ、次はミスしないでね、私としてはその仕事ぶりでいいですよ」といえる必要があるわけです(もちろん、シビアな世界があるのですべてに通づるわけではないですが)。

 それは、その人の一所懸命を見る一方で、人間らしさがあるんだな、という、まさに余裕が生むものだといえます。

将来の不安

 もう一つ、不安と言えば「将来不安」があると思います。特に、現代では突然いろんなものが失われたり、危機が訪れたりします。最近であれば、大手企業の倒産や災害や事故による突然の死別…現代社会はリスクにあふれています。ただ、これらのリスクをすべて回避するなら、隠居するくらいしかないでしょう(隠居も大変だと思いますが…)

 いままでも、将来不安というのはありましたが、現代では「並の生活からの転落への恐怖」が非常に強いといえます。それは、TVでホームレスの特集が組まれたり、ブログやSNSに書かれたりと、いままで触れることがなかったことが可視化されてきていることもあります。そういうことに触れると人間はカルチャーショックを受けるわけです。「明日は我が身」と(そんなシリアスな人ばかりではないと思いますが)。

 やはり、頼りにできるものが現代には少ないのです。そのために現代ではシェアハウスであったりオンラインサロンであったりSNSであったりと「新たなつながるツール」が多く誕生しているわけです。

 さて、話がだいぶとんでしまいましたが、人間らしさのある生活を、宗教という「すがれるもの」がカバーできる、といえるのでしょうか?

なぜ「宗教」の可能性を信じるのか?

 宗教の良いところは、ひとつの信じるものを囲うことで、一体感が出ることです。もう一つ、それはお金ではなく安心感という精神的な価値の共有が中心となっていることが言えます。

ひとつの信じるものを囲うこと=小さなコミュニティ

 宗教のコミュニティは、高度経済成長期の前後で種類が異なるにしても、その周辺の時代で形成されています。前の場合は伝統宗教、後の場合は新興宗教の場合が多いです*4

 では、そのコミュニティの意味とは何か。それは、「社会関係資本」です。

 「社会関係資本」とは、よく言われる「コネ」や「つながり」を資本としてとらえた概念です。資本と言えば、お金やヒト、インフラ構築物などのモノや教育といった文化的なものを指す場合があります。「社会関係資本」は後者のような無形なものです。

 コミュニティ自体はかなり古いものが多いですが、その分つながりは強いです。そして、宗教というものを中心にいろいろなものの交換や協力が飛び交っていたのです。残念ながら、最近はかなりなくなってしまいましたが、もしこのような活動が活発化すれば、宗教のコミュニティの価値、「社会関係資本」としての価値は非常に高まります。そして、頼れるものを作ることで不安が減るのではないか、という考えなわけです。

 家入一真さんの『なめらかなお金がめぐる社会。 あるいは、なぜあなたは小さな経済圏で生きるべきなのか、ということ』(2017)の中で、「小さな経済圏」で新しい生き方を探してみよう、ということを提案している。

 宗教のコミュニティはいま高齢化しているが、一方で若者が入り込んで暴れてもいい環境がある程度あるといえる。逆に若者が帰れる場所としてデザインしなおしてもいい。私の寺でも「若いもんがいなくてさ~」という声を聞く。それは一つはマーケティングの再構築ができていないので若者にリーチできていないことがあるだろう。もう一つはその「社会関係資本」に魅力を見いだせないという点があるだろう。であれば、長所を見つけ(作ってもいいが)魅力を広めていく必要があるだろう。

 それは金銭的なインセンティブではなく、「信じるという集合」「帰れる場所としてのコミュニティ」「つながりを探せる場所」など、精神的に欲しくなる、依存したくなるものを魅力として作り上げていくべきだろう。そのようにして信頼を勝ち取るところからスタートだ。

安心感という精神的価値

 精神的価値とは、『お金2.0』*5 のいう、「価値主義」の中でも「内面的な価値」の概念に近いです。「価値主義」とは、本書の中で以下のように述べられています。

価値主義ではその名の通り価値を最大化しておくことが最も重要です。価値とは非常に曖昧な言葉ですが、 経済的には人間の欲望を満たす実世界での実用性(使用価値・利用価値)を指す場合や、倫理的・精神的な観点から真・善・美・愛など人間社会の存続にプラスになるような概念を指す場合もあります。

 

 さらに、『お金2・0』では、価値を①有用性としての価値②内面的な価値③社会的な価値の3つに分類しています。その中でも、精神的価値に近い概念である「内面的な価値」については以下のように書かれています。

その個人の内面にとってポジティブな効果を及ぼすときに、価値があるという表現を使います。(中略)感情は消費する、役に立つといった実用性とは無縁だからです。ただ、美しい景色を見た時、友達と過ごして楽しかった時、それらには価値があると表現しても特に違和感はないはずです。

 感情を育み、それが表面に生まれ、表現されるのが人間の特徴であり、頭を良くしていくという「有用性としての価値」につながるのが精神的価値の重要性につながると考えられるわけです。

 精神的価値は現代社会において、もっといえば宗教が意識されにくい時代においても「共感」「感謝」などの価値として注目されています。それはSNSで共感が共有しやすい、というよりも共感がネット上で生まれやすいことと関連が深いと考えられます。

 宗教は、そういった精神的価値を提供する教育機関として、啓蒙者としての立場をこれから広げていく、そのような役割を持っても良いと思います。それがこれからの宗教の役割であり、衰退期にある宗教の次の転換する先になるでしょう。

まとめ

 ここまで、宗教とは何か、人間らしさは現代に欠如している、そして宗教の精神的価値について述べてきました。まだここまではガイダンス的なものです。ここからさらに宗教の可能性、ひいては宗教活動や社会活動の幅まで宗教の役割は広がるであろう、深耕すべきであろうという主張をいろいろな考え方を引用していきたいと考えています。

 

*1:海外の宗教事情に関する調査報告書、文化庁、2008

*2:『絶望の国の幸福な若者たち』古市憲寿、2013

*3:『宗教は人を救えるのか』釈、2014

*4:『宗教消滅 資本主義は宗教と心中する』島田裕巳、2016

*5:佐藤航陽、2017