しまさんのアタマの中

ワタクシしまさんのアタマの中。公益性ってなんぞ?「にんげんの森」。宗教のこれからを考える「宗教といつか」。そのほか普段思ったこと、知れば少し幸せになれるかもな考え方を書いてみてます。

「弱い」という強み

もう一つのテーマ

  8月に参加した学生の勉強会「政策・情報学生交流会」が、次回は2月と聞いたので参加したいとは思ってた。でも今度は「作る側にまわりたい」という気持ちがあった。なのでチューターという教える側、企画を作る側に見事なることができた。

理由は二つある。一つは自分の好きなことが、参加者に対して大きな価値になると思ったから、一つは8月のほうに参加した時の分科会の自分に対して感じた不満があったからだ。

 一つ目の自分の好きなことというのは、新たな考え方を創造して、その考え方を教え、教えられた側がパフォーマンスを発揮する。まあつまり何かのために何かを作り上げることと人に教えることである。

 二つ目の自分に対する不満というのは、クローズな自分がいたことだ。本音がうまく出せてなかった。それと、自分の幸せを描くべきなのに周りが気になってしょうがなかった。あと、社会に対するアプローチがあったら面白くなるんじゃないかなという向上心である。(ちなみに前回分科会Bに参加したら今回も分科会Bだった。個人的な好みだが2番目が好きである)

 今回の場合なら、「公益性」と「社会貢献」という考え方だ。「社会貢献」とは、社会に対して価値を提供していくことをいう。*1対価の有無はここでは関係ない。「公益性」とは、社会の利益となること*2、できる限り多くの人に対して良い価値を提供すること、社会貢献のずれやマイナスポイントを修正していくことである。このテーマに沿ってワークをいろいろやる。グループワークやペアワーク、レクチャー、プレゼンテーションなどである。

この「公益性」と「社会貢献」というテーマであるが、僕にとって必ず教えたいことがある。それは「弱くてもそれは強み」である。

「弱い」ことさえ強み

 自分で書いてても「は?」と思ってるんだけど、進める。具体例を出せば、「サーバント・リーダーシップ」*3がある。チームの中でヘタレ野郎だけど、いないと困る存在。それはパシリである。(実際自分がそうだった)そういうパシリはビジョンを示して何かをしようとすると、ヘタレ野郎なのでまわりの意見にぼこぼこにされる。しかし、まわりのほうがレベルが高いうえに、その強さを引き出せる(守るより攻撃する方が人は強い)。つまりそのビジョンに対する行動は最高のものを作りやすいということだ(僕の勝手な定義ですこっちは)。

 ほかにも、ヘタレ野郎なので外的に弱いからみんな守ろうとする、という強みもある。「ヘタレ野郎」ちゃんと考えられるようになれば最強説。

 僕自身も、生協学生委員会で3つ企画やった。自慢じゃなくて、やりたいことやったら結果的に3つもやっちゃってた。全部一貫して自分が立場が低かったが、がゆえにいろんな意見が出たし、いまも継続してやる人がいる。ということは強みがある企画だったのだろう。

 「サーバント。リーダーシップ」は一例だが、弱いという強みはたくさんあると思う。家族がバラバラだったが、母が病気になったら途端に家族が結束するみたいな話も近い。

 僕がなぜそれを教えたいかというと、社会において目立つ人、先天的にスペック高い人は強いけど、それと対極に目立たない人、スペックはそれほどじゃない人はそうじゃないところで勝負できるし、そうじゃないところがないならもはやないことさえも味方にできる、ということだ。

 だから、思考力トレーニングを積んだうえで、自分の弱いところを強みにする考え方や視点を身に付けて、負けないでほしい。勝たなくていいし、もはや勝負しなくていい。僕も「負けないけど、勝つ気はない」という考え方で生きてるし。

 ちょっとズレたけど、弱い人は弱いという強さを発揮する考え方を知ればだれでも生きていけるし、これからそういう世の中を作りたい。弱い人が生きられない社会は、みんな強くなければいけないっていう硬直した社会だから。*4いろんな人がそういう考え方をもってほしいと思った。あら、交流会の日になる前に書いちゃいました(てへぺろ)。一応宣伝すると2月16日から2月20日までだよ。

 

 

*1:かなりの拡大解釈だが、誰でもできるし、就活サイトのどの会社のページ見てもこの文面で社会貢献を語ってる

*2:この考え方はサステナビリティな考え方である。社会にとっていくら便利な製品を提供しても、環境汚染で不健康な人が増加したらそれは公益性が高い事業とはいいにくい。

*3:「サーバントリーダー」とは? - 『日本の人事部』より

*4:まだ読んでないけど、家入一真さんの我が逃走ってそういうことなのかなと

「1から100」と「0から1」

「負けない」のはどちらだろう。

僕は。「勝ち負け」なんていう概念は必要ないと思う。あんなに人間を荒ませてしまう概念いらない。少なくとも、「勝ち組」という言葉が代表だけど、勝ちなんていらない。誰かが負けなきゃいけないのはおかしい。

でも勝負というのはどこにでもある。嫌いだからって避けれるもので無し。では、「負けない」というのはいかがだろう。

結構、組織や社会で勝負する羽目になるのは、「1から100に増やす」作業じゃないかなと思う。商品の営業もそう。なにか商品を競合他社と売り込みでコンペして勝負を決めることがあるが、あれは1から100に増やす過程で喧嘩しなくてはいけないという方式だ。

その点、「0から1」の作業、例えば新しいサービスを一から作る作業、なんていうのは喧嘩は不要、いろいろ議論はするけど楽しい。てか楽しければそもそも勝負なんて関係ない…という結論が言いたいわけではない。

社会にとっての「負け」

「0から1」の作業は、1ができたときに誰とも勝負しないでいろいろできるという利点がある。もっというと、それまでならほかのところがガンガン手伝ってくれちゃったことなんてのもある。

そもそも勝負してる時点で負けなのである。共生社会とか多様性社会とか言う言葉の下では勝負が生まれている時点でダメなのである。もちろん、執念さえあれば勝負に負けることはない(舩井幸雄「ベイシック経営」)。でも勝負が生まれた時点でもう負けである。なぜなら勝ち側と負け側ができるということは社会にとって良いことではないからだ。(あくまで経済学ではなくて社会倫理学的視点でしゃべってるので、経済の成長の敵なんていう話をする気はない。ちなみに縮小均衡したほうが僕は幸せが多いと思う)

だから、「1から100」よりも「0から1」の作業のほうが偉いとか、そういう結論じゃない。「0から1」を生めることがより社会的に進化するかもね、生み出した周辺の人たちが幸福になって、それが大量に積まれれば社会は幸福だよね、という結論を導き出したい。

男子に対する「強くなりなさい」という呪い

「男子は強いんだから泣くんじゃないんですよ」

 小学校の頃によく言われた。中学校でも言われた。昔ながらの家庭や学校ではよく言われたのかもしれないから、頻出フレーズの一つだろう。

 しかし、残念ながら本当に「強い」人は小学校で泣く機会なんてそうそうない。つまり、そうじゃない人は泣く機会は多くあるし、泣かないために「強がる」ので、表面上だけ強く見える。

弱い子は強くなることができる、という幻想

 僕は教育論者ではないし、子育てもしたことない。であるならば自分の実感を伝えるのが一番手っ取り早いだろう。

 弱い男子は強がる。親に「強くなりなさい」と呪文を言われ続けて。というか、強かったらそんな言葉言われないんだけどな。そして、強がるので本当に「強い子」にやられて、パワーバランスは変わらないのに親から見て強くなってることになる。そして弱いまま成長してしまう。

 「何かを乗り越えて強くなった」的伝説を多く聞くし、本当にそうかもしれない。しかし、それは「そういう精神力を身に付ける強さがある」(この場合の強さはかなり広義で、金銭的であったり、身体的であったりする)人によるものが多い。

 さらにいうと、そういう弱い子はクラスとかチームとかの集団社会では弱い立場にいるのみでなく、実際に足手まといになるときがある(これはすべてにいえるわけではないが)。だから、教育者や指導者はその足手まといの責任を取るために「強くなれ」と言う。そして強がる弱い子はまた足手まといをして…の繰り返しである。しかも男子は「強い」前提だし、そうでなくても「強くならなければならない」前提があるから余計苦しい。

 僕もそんな「強がる弱い子」の一人であった。限界までがんばって、限界になった瞬間シャットダウンする。か爆発する。それは大学でもそうだった。爆発が内面的になっただけで。弱いことを正直にさらける器用さがあると味方や友達がすごくついてくるのだが、そういう器用さを身に付けれない人々はあまりついてこない。よって独りよがりであることも多い。(世の中器用な人ばかりじゃないのに器用な人に合わせてできてるよね?そうよね?)

弱い子の強さ

 と書いて、そういえば大学1年に買った新書を思い出したので、とりだして見直してみる。その年は著者であるやなせたかし先生の亡くなった年でもあった。

 

  この本の128頁に、強さと弱さについて書いている部分がある。「あかちゃんまんは一番弱いから一番強い」。聞いた瞬間は意味がよくわからなかったけど、ことわざに「泣く子と地頭には勝てぬ」なんていうのがあったのを思い出して納得した。道理が通じないものには何やっても無駄。つまりある意味で最強なのである。

 何が言いたいかというと、「弱い子には弱い子の強さがある」ということだ。「弱い子は人の気持ちに寄り添える」「弱い子はしがみつくのには強い」という定説もあるが、僕の考える強さは「社会に弱い子として存在すること」にあると考える。

 チームで、ずっとベンチだけど「こいついないと試合の盛り上がりに欠ける」とか「こいつがいっつもいろいろしてくれるから試合に集中できる」とか「こんな声かけされたから勝てた」とか。そういう人がいい例かもしれない。

 これは社会のサイズにしても可能性がある。「弱い人の存在による社会やレジームの再構成」である。弱い人が明確に定義できれば、それを救うセーフティネットをしくことができる、という社会的包摂論にもっていきたいところだが、それにはあまりに知識がないので難しい…(笑)

 ただ、僕の口から言いたいのは、「強がっている弱い子を救いなさい、気づいたらなるべくすぐに」ということである。強がるというのは「叫び」に近いのだから。見分けるのは簡単ではないが、これをすると不幸せなことは減る。救うというのは、直接手を差し伸べるだけじゃない。その人の存在意義をしっかり見つめて、弱いことを見せても大丈夫であることを伝え、証明することじゃないかなって思う。

 というのを、中3で出合って、いま音源を手に入れて聞いているこの曲↓を聴きながら考えてた。あと人生でなんど泣く機会と出会うだろうか…。

Cry Baby

Cry Baby

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