しまさんのアタマの中

ワタクシしまさんのアタマの中。公益性ってなんぞ?「にんげんの森」。宗教のこれからを考える「宗教といつか」。そのほか普段思ったこと、知れば少し幸せになれるかもな考え方を書いてみてます。

男子に対する「強くなりなさい」という呪い

「男子は強いんだから泣くんじゃないんですよ」

 小学校の頃によく言われた。中学校でも言われた。昔ながらの家庭や学校ではよく言われたのかもしれないから、頻出フレーズの一つだろう。

 しかし、残念ながら本当に「強い」人は小学校で泣く機会なんてそうそうない。つまり、そうじゃない人は泣く機会は多くあるし、泣かないために「強がる」ので、表面上だけ強く見える。

弱い子は強くなることができる、という幻想

 僕は教育論者ではないし、子育てもしたことない。であるならば自分の実感を伝えるのが一番手っ取り早いだろう。

 弱い男子は強がる。親に「強くなりなさい」と呪文を言われ続けて。というか、強かったらそんな言葉言われないんだけどな。そして、強がるので本当に「強い子」にやられて、パワーバランスは変わらないのに親から見て強くなってることになる。そして弱いまま成長してしまう。

 「何かを乗り越えて強くなった」的伝説を多く聞くし、本当にそうかもしれない。しかし、それは「そういう精神力を身に付ける強さがある」(この場合の強さはかなり広義で、金銭的であったり、身体的であったりする)人によるものが多い。

 さらにいうと、そういう弱い子はクラスとかチームとかの集団社会では弱い立場にいるのみでなく、実際に足手まといになるときがある(これはすべてにいえるわけではないが)。だから、教育者や指導者はその足手まといの責任を取るために「強くなれ」と言う。そして強がる弱い子はまた足手まといをして…の繰り返しである。しかも男子は「強い」前提だし、そうでなくても「強くならなければならない」前提があるから余計苦しい。

 僕もそんな「強がる弱い子」の一人であった。限界までがんばって、限界になった瞬間シャットダウンする。か爆発する。それは大学でもそうだった。爆発が内面的になっただけで。弱いことを正直にさらける器用さがあると味方や友達がすごくついてくるのだが、そういう器用さを身に付けれない人々はあまりついてこない。よって独りよがりであることも多い。(世の中器用な人ばかりじゃないのに器用な人に合わせてできてるよね?そうよね?)

弱い子の強さ

 と書いて、そういえば大学1年に買った新書を思い出したので、とりだして見直してみる。その年は著者であるやなせたかし先生の亡くなった年でもあった。

 

  この本の128頁に、強さと弱さについて書いている部分がある。「あかちゃんまんは一番弱いから一番強い」。聞いた瞬間は意味がよくわからなかったけど、ことわざに「泣く子と地頭には勝てぬ」なんていうのがあったのを思い出して納得した。道理が通じないものには何やっても無駄。つまりある意味で最強なのである。

 何が言いたいかというと、「弱い子には弱い子の強さがある」ということだ。「弱い子は人の気持ちに寄り添える」「弱い子はしがみつくのには強い」という定説もあるが、僕の考える強さは「社会に弱い子として存在すること」にあると考える。

 チームで、ずっとベンチだけど「こいついないと試合の盛り上がりに欠ける」とか「こいつがいっつもいろいろしてくれるから試合に集中できる」とか「こんな声かけされたから勝てた」とか。そういう人がいい例かもしれない。

 これは社会のサイズにしても可能性がある。「弱い人の存在による社会やレジームの再構成」である。弱い人が明確に定義できれば、それを救うセーフティネットをしくことができる、という社会的包摂論にもっていきたいところだが、それにはあまりに知識がないので難しい…(笑)

 ただ、僕の口から言いたいのは、「強がっている弱い子を救いなさい、気づいたらなるべくすぐに」ということである。強がるというのは「叫び」に近いのだから。見分けるのは簡単ではないが、これをすると不幸せなことは減る。救うというのは、直接手を差し伸べるだけじゃない。その人の存在意義をしっかり見つめて、弱いことを見せても大丈夫であることを伝え、証明することじゃないかなって思う。

 というのを、中3で出合って、いま音源を手に入れて聞いているこの曲↓を聴きながら考えてた。あと人生でなんど泣く機会と出会うだろうか…。

Cry Baby

Cry Baby

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