しまさんのアタマの中

ワタクシしまさんのアタマの中。公益性ってなんぞ?「にんげんの森」。宗教のこれからを考える「宗教といつか」。そのほか普段思ったこと、知れば少し幸せになれるかもな考え方を書いてみてます。

「にんげんの森」① 公益とはなにか

 あらためて、第46回政策・情報学生交流会分科会B「にんげんの森」でやってきたことについて、書いていきたいと思います。
 そもそもわたし自身、大学は経営学会計学を専攻していました。その中で、自分が寺院出身ということもあり、その経験から「宗教法人の情報開示」について、公益性という概念から考えるという研究をしていました。その中で、「社会において、個人は公益性という考え方にコミットできるのか?それを実現することはできるのか?」という思いから分科会を構成したのです。
 ただ、考え方だけは文字にできると思ったので、そのままブログに放流することにしました。
 早速内容に入っていこうと思います。

 

そもそも社会とは?


 「社会」と一口にいってもいろいろあります。「地域社会」「日本社会」「国際社会」…。
 では、普遍的な定義は何があるでしょうか?
 「人間と人間の関わりのこと*1
 そう、僕たちは社会の構成員として生きています。そのため、他人とのかかわりを(拒絶することは可能にせよ)していく必要があります。そして、僕たちの作る人間関係や組織は一つの社会と考えられるわけです。その社会がたくさん集約されてさらに大きな社会を構成するのです。

「良い社会」とは?


 次に、良い社会、とはどのようなものでしょうか?これは社会の定義以上に、個人の価値観に左右されるのではないでしょうか。
 僕は、自分自身が個性を認められた環境にいることで成長し、組織が個性によって強くなっていることを感じることを多く経験したので、「さまざまな環境で育った人たちが、それぞれのパワーを社会のために最大限に発揮できる社会」が達成されれば、個人の幸せと社会の効用の最大化を同時に達成できると思います。
 人によっては「良い社会」の定義も変わってくると思います。
 たとえば、「失敗しても社会がカバーできる状態」であったり、「すべての人が社会に生きる意識でたすけあえること」であったり、「個人が社会のムーブメントを次々作り上げていける状態」だったり。しかしこれらの「良い社会」の定義が個人の価値観に左右されすぎた場合、ラディカルな価値観が広まることによる社会の悪化なんてこともあります。(宗教的テロリズムはこの一例ともいえます)
 そこで、それを統一する概念として、「公益性」を考察します。「公益性」の一般的な意味は「不特定かつ多数の者の利益の増進に寄与すること」。すこしくだけた言い方をすると「自分たち以外のできる限り多くの人が、金銭的、精神的、社会的にうれしい思いをすること」ということになるでしょうか。

「公益性」とは?


 先述しましたが、「公益性」の一般的な意味は「不特定かつ多数の者の利益の増進に寄与すること」でした。
 では、僕の定義はというと、一般的な意味をさらに抽象化しています。それは、「社会にとって良いこと、価値になること」です。
 抽象化したので具体化しましょう。先ほど僕にとっての「良い社会」は「さまざまな環境で育った人たちが、それぞれのパワーを社会のために最大限に発揮できる社会」において、社会にとって価値となることってなんでしょうか?
 たとえば、大学で考えてみましょう。大学の学生の多様性を確保するために、留学生の受け入れや推薦・AO入試の推進していることがあります。そのことによって、さまざまな環境で育った人たちを集められます。そして、大学という社会において、価値は「学生が学校での活動を通じて社会で活躍できる人間を育てる」ことと「研究機関として知見を提供する」ことが挙げられると思います。さまざまな人間がそれを追求していくことが公益性を達成することにつながります。また、さまざまな人間が実現できる環境を整える必要が大学に求められるのです。
 話を戻すと、「公益性」とは「社会にとって良いことや価値となること」、それ自体はかなり抽象的です。しかし、どのような社会を目指すか、どのようにそれを実現するか、そのためには何が必要か、については具体化できます。また、それは社会が勝手に定義するものでなく、社会にいる個人が定義し、活動する中で生まれていくものなのです。
 

「公益性」は会社にも


 このような公益性の概念の例として、会社の理念があります。会社は本来機能は「お金を稼ぎ、出資者に還元する」ことです。ただそれだけならば公益性が大きいとは言えないでしょう。しかし、現代の会社に求められる機能は、金儲けと「事業の社会性」です。社会的に受けなければ儲けられないのはもちろんですが、儲ければいくら公害を起こしていいのではないし、儲ければ労働者はいくら働かせてもいいわけではないし。つまり会社は社会の中のコミュニティの一つとして活動しなさい、社会を良いものにする価値を提供しなさい、と社会の中で求められるようになりました。(これが企業の社会的責任概念です)
 その公益性を明示したものが会社の理念です。たとえば大手自動車メーカーの本田技研工業の企業理念は「わたしたちは、地球的視野に立ち、世界中の顧客の満足のために、質の高い商品を適正な価格で供給することに全力を尽くす。」となっています。(http://www.honda.co.jp/guide/philosophy/)それは、ただ金儲けをするのではなく、社会にどのような価値を提供するか、何を目指すかを明示しているのです。
 

とりあえずの結論


 ここまで、「公益性とは何か」ということを論じてきました。
 公益性という抽象的な概念ですが、大まかな定義は「社会を良くするもの、社会にとって価値になるもの」と覚えていただければいいです。それは、人間によって構成される社会だから必要になるのです。そして、社会を形はなんであれ、良くしていく必要が個人に求められます。ここでは「良い社会」とは何か?価値となることとは何か?ということを定義してきました。次の記事で公益性の要素を掲げていきます。
 

*1:『はじめて学ぶ社会学』 髙木、村田、大島

「にんげんの森」のあとがき

僕のもう一つの卒論が終わりました。

 とはいえ、ほんとの卒論は1月18日に出してたんですが(笑)。もう一つの卒論とは、そう、「政策・情報学生交流会(分科会紹介 – 第46回 政策・情報学生交流会)」での分科会という一つの勉強クラスタです。

ここで書きたいのは、終わった感想と何がしたかったか、です。卒論を書く前にいきなり「おわりに」から書くようなもんですが、なんとなくこっちから書きたくなったのでこっちから書いちゃう。

終わった感想

 端的に言うと「前回感じた不満を今回吹き飛ばせた」と思ってます。前回の不満とは、以前書いたエントリの中に。

 

shima-kun041.hateblo.jp

二つ目の自分に対する不満というのは…社会に対するアプローチがあったら面白くなるんじゃないかなという向上心である。

 まあつまり自分のやりたいことは社会のためになりますか?という問いかけをして、そこからそもそも社会を良くしていく、価値を与えていくというのはどういうものかを分科会のメインテーマとしてきたわけです。別にBKBでふざけるために分科会してたわけじゃないし、交流するためだけにチューターとして分科会というコミュニティを作ってるわけじゃないし。

 前回(夏)が初参加だから、もちろん今回が初チューター(分科会の先生役)であったわけです。正直生協学生委員会の時にやった勉強会の方式を使ってしまい、少し退屈させちゃったなあなんて思った。以下良かった点と反省点。

  • 伝えたいことを途中から絞って、ワークを追加するという切り替えをできた。

 僕はなにかと教えたいことを詰め込みがちだったので、何が伝えたいのか、何が必要かを見分けるのが苦手なんだなというのを今まで感じてました(貧乏性なだけかも)。ただ、チューター3人で、「話してるより実際に考えたほうがわかる」ということを言われて、考える時間を一気に増やしたら非常にみんな考えてくれました。先生って思っちゃダメなんだね。あくまでチューターも参加者。

  • やりたいことをほとんどできた。

 次の部分で詳しく言うけど、やりたかったことをほとんどできたことが成果の一つであったと思います。時間不足でやれなかった、というよりも必要ないと思ってはしょったのでそこを除けば完璧にできたと思う。ただ、やはり座学が多すぎたという反省はしてます。ゲーム化できる部分結構あったもん。今思えば。

 お互いパートを3つに分けたのが原因っちゃ原因なんだけど、もっと3人で連携して頑張りたかったよねって感じです。ほかの分科会が特にそうだからってのもあるけど。

 とまあこんな感じ。楽しかったで終わりたくなかった(うわすげー当たり前のこと言ってる恥ずかしい)ので、まさに「これが私の生きる道」といえることをみんな持てたとは思ってる。そうじゃないなら個人コンサルします(笑)。

 分科会をほぼ1から作る経験は楽しかったです。苦しいことも多かったけど。そしてそれは強みにもなっていくのではないかな~なんて思ってる。

 

やりたかったこと

shima-kun041.hateblo.jp

  ここでも書いたのだけど、うちの分科会はただの「自己啓発」じゃなくてあくまで「自分でできる社会貢献」がテーマであり、まさに0から1だと思ってる。でも一方でほかの人がこの分科会を再現するのは割と簡単だ。それは意図的に簡単にしたといっても過言ではない。これは社会にいる人間にとっても当たり前になっていくべきことを分科会のネタにしたからだと思う。次にこの話を取りあげて、さらにいいものを作ってくれそうな人いるかな???

 アウトプットとして「あなたにとって公益性と社会貢献とはどのようなものですか?」ということを考えてもらいました。思ったよりもうまくアウトプットをしてくれたと思います。そしてそのあと、「いまここでやってもらったのはアウトプットだけど、将来この影響を広げていくことで価値を提供する、つまりアウトカム*1がこの分科会を通して生まれるようにみんながんばってほしい」と話しました。あくまでアウトプットまでで参加費(24,000円)分の価値を分科会で提供できたと思っています(うぬぼれかもしれないけど)。

 さて、あとがきらしいことはあんま書いてない気がするけど…(笑)。チューターの二人には感謝しています。いろいろ大変な思いさせてすまんなぁという思いとともに、でもついてきてくれたんだな―なんて思ってます。

 最後に、交流会はエンターテイメントじゃないというエントリを見て思ったことがあるんです。

alldependsonme.hatenablog.com

 

  一つ感じたのは、僕の想いと近い部分があるのかな―なんて勝手に思ってみる。分科会の最後の「たどり着いたらそこがスタート」というメッセージを送ったんだけど、それがここの最初に書かれてるんだなって今更見て思った(以下は曲から引用、歌詞にある)。


1/6の夢旅人2002 樋口了一 VIETNAM VERSION

 ただ、交流会はエンターテイメントじゃないっていうので、参加者全員が消費し、生産するといういわば一つのコミュニティの知的経済構造であり、社会関係資本*2の生産・消費なのかな―なんて思う(急に学術的になった)。

 まあこれからも作っていくのか、身じまいをしていくのかは僕らいなくなる人たちが語るものではないんだろうなと思ってますので・・・(笑)。まあがんばってください。「老兵は死なず、ただ消えるのみ…」ですから。

*1:成果という意味の英語で、研究がもたらす本質的な成果のことを指す。論文や特許の数といった外形的なものではなく、実際に社会にどんな影響を与えたかを評価すべきだという考え。知恵蔵(アウトカム(あうとかむ)とは - コトバンク)より

*2:ソーシャル・キャピタル - Wikipediaによれば、。人々の協調行動が活発化することにより社会効率性を高めることができるという考え方のもとで、社会の信頼関係規範ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念

なんで人間を「材」「財」って考えるの?

人間って、「財」じゃなきゃだめなの?

という疑問が最近湧いた。就活してた時、いろんな会社が「弊社では人財開発を進めております」とか「人財の採用を進めます」とか言ってた。

でもさ、人間て「財」じゃないし、「材」じゃないと思う。というのを以前ついつぶやいてしまった。

人材不足という表現は、人間をしょせん材料くらいに思っている言い方だからいやだっていうのがシンプルな表現になるかな。

「じゃあ財でもいいじゃん」

そうですね、おっしゃる通りです。でもね、「財」って宝物という意味で使っているなら、宝「物」であることを忘れてるんじゃないかと。だから、人間というのは「人生ここまで生きてきて、いまどういう人となりで、これからこういう夢やなりたいものを目指す」から人間なのであって、「材」でも「財」でもない。

「人間の値打ち」

 

人間の値打ち (集英社新書)

人間の値打ち (集英社新書)

 

 いまこういう本を読んでいる。鎌田實先生は、医者だけど、人生哲学をすごく教えてくれてる。この本では、「人間の値打ちってなんだろう」という視点から、人間の社会をとらえている。特に、冒頭の部分で

この国の政治家には、コストでしか人間の価値を測れない人がいるようだ。(中略、麻生現副首相の高齢者に対する発言を引用してから)長生きはおめでたいことのはずなのに、これでは「お金がかかるから長生きするな」と言われているようなものではないか。(p.21)

実際、発言自体は若者を中心に共感されている。たしかに、この麻生副首相の発言自体は切り抜かれたものかもしれないが、なんか悲しい。

元の話に戻そう。鎌田實先生は、さらに相模原の障碍者施設襲撃事件の話から、遺族の発言に

「この国には優生思想的な風潮が根強くあり、すべての命は存在するだけで価値があるというのが当たり前ではないので、とても公表することはできません」とコメントしている。(中略)生きているということがどんなにかけがえのないことか、根源的な命の「価値」が軽んじられている。(p.23)

と述べている。実際、会社がそのつもりで言ってないのはわかるが、どうしても(あくまで個人の感情だが)人間を「人材」「人財」と考えるのはやだ。

人間の「価値」は計測不能な「社会的価値」があってこそ

そろそろ結論。鎌田實先生は、人間の値打ちについて、稼ぐ力が人間の価値(これこそが会社にとっての人財価値なのだろうが)だと、それも大切だが、ほかにも「生活力」というリアルな、どんな状況でも丁寧に生きる力が大切だと述べている(p.30)。

もっといえば稼ぐ力につながる部分も多い。それは、物がいいだけでは売れない時代だからこそ。理念や哲学のこもった商品を売ることの、利益という数字では見えない価値を生み出せることをこれから見ていかなきゃいけない。

そのためにも、人間の「価値」というのは、ただ稼ぐ力がすごいのではなく、ただ知識量やコミュニケーション能力に頼って戦うのでもなく、色んな人間を寛容できたり、人生の新しい道を提案したり、場合によってはいままであった価値を捨ててでも自分の新たな価値を創ったりすることができる、「人間」であることだと思う。

自分さえよければそれでいいなら、稼げるだけで良いけど、そんなんで人間として生きてていいの?そんなの人間じゃなくて「人財」だから、将来AIとか機械とかがやるからいらないよ?というあおりを積極的にしていきましょう。だって、「人間」が作った社会だもの。人間が活躍しましょ。一億(人間が)総活躍社会で。